T 経過と基本構想
1.建設準備の経過
 平塚市は、神奈川県中央南部、相模川と金目川にはさまれた沖積平野を中心に発達した町である。市街地の大半を戦災によって焼失し、歴史的遺産の多くを失なった本市は、戦後の復興の中で、教育文化都市として発展することをうたってきた。
 その政策の一環として、社会教育施設の充実がはかられ、地区公民館網の整備と並んで、市民の教養の場としての文化センターの建設が構想されるにいたった。昭和42年にまとめられた「文化センター基本構想」の中で、図書館・青少年会館と並んで博物館の建設が計画にのぼった。以降10年を経て、他の2館の後を受け博物館が開館した。来年度に予定されている庭園整備をもって、当初の計画通りの文化センターが完成をみるわけである。
 博物館の建設にあたっては、社会的な諸条件を受け、長い準備期間が必要であった。その歩みを以下の各章で記録として整理し、博物館誕生の資料としたい。図1と年表に、建設準備の経過をまとめてみた。

建設準備年表
 昭和41年
   3.28 市議会定例会で、不動産の取得「教育文化センター用地として、浦賀重工から 22,237.08uを 269,068,800円で買収」について可決。
   7.  この頃から、企画管理室で”一般市民が気楽に、そして容易に楽しめる公園式文化センター”を建設することを基本として、文化センター構想の検討が始まる。
   7.〜42. 1. 市長・助役・企画管理室・教育委員会・青少年課等の10数回の打ち合わせの結果「文化センター基本構想」がまとめられる。

 昭和42年
   2. 6 市議会の総務・文教・民生合同協議会で「文化センターに関する基本構想(案)」を了承。
   3.13 市議会定例会で「文化センターに関する基本構想(案)」を議員全員に配布。
   5. 2 文化センター建設連絡会議を開催。文化センター建設指名応募設計要綱決定。
   6.  市議会定例会で、文化センター建設に伴なう設計事務所の選考方針説明。
   7. 1 10設計事務所を指名、各社に通知。創和建築設計事務所・梶建築設計事務所・丘設計事務所・三真監理・岡建築設計事務所・建築モード研究所・桂建築設計事務所・田中建築事務所・佐藤武雄建築設計事務所・志村建築設計事務所。
   8.31 指名設計事務所から応募作品10点の提出。
   9. 5 応募作品審査のため7名の審査員を委嘱。内藤多仲(東海大学教授)・小塚新一郎(東京芸術大学学長)・佐藤仁(横浜国大助教授)・前川喜寛(建設省建築指導課長)・水谷喜一(神奈川県建築部長)・加藤一太郎(平塚市長)・角田鎮雄(平塚市議会議長)。
   9.11 応募設計審査会を開催。
   9.13 市長・議長・関係理事者において検討の結果、審査会の決定どおり、葛u設計事務所を入選とし、基本設計ならびに実施設計の委嘱をすることに決定。

 昭和45年
   4. 1 平塚市図書館オープン(延面積 4,776.1125u)。
    博物館建設業務担当主幹が配置され、本格的な準備に入る。
   8.13 博物館建設研究調査委員9名を委嘱(46年4月1名増員)

 昭和46年
   1.18 神奈川県立平塚青少年会館がオープン(延面積 2,066.69u)。
   2.10 第5回博物館建設研究調査委員会で、博物館建設の「趣旨・目的・性格」を決定。
   4. 1 博物館建設準備室を設置(室長1名・学芸員相当職1名)。
   6.  「博物館建築設計の立案に関する方針」、「博物館展示ストーリーの考え方」等がまとまり、博物館構想の概要ができあがる。
   6.19 博物館建設準備年次計画案作成。本体工事 48年9月完了、開館 49年4月。
   6. 3〜25 博物館の平面プランを準備室で作成。第4次案を最終案として市建築課経由で丘設計に提出。
   7.〜8.25 丘設計から第1〜第7試案提出。第7試案を採択し、基本設計を進める検討図面とする。
   9.30 定例市議会で、委託料 930万円(建築基本設計 330万、展示設計 600万)を可決。
  10.31 丘設計から「博物館新築基本設計図」が納品。
  12.13 樺O青社と展示設計委託契約(設計委託料 5,988,200円)。
    総合開発実施計画(47年〜51年)。
    46年度 建築基本設計・展示設計、47年度建築実施設計、48・49年度建築、50年度開館。

 昭和47年
   3.21 樺O青社から、展示計画書、展示設計図、展示設計予算書等が納品。
   4.15 定例教育委員会に展示計画書、展示設計図を提出。
   7.20 市議会全員協議会で「博物館の基本設計ならびに展示設計について」として内容を説明。
  11.11 丘設計に建築実施設計委託。
  11.21 建築実施設計にあたっての検討資料作成。

 昭和48年
   3.20 丘設計から「博物館建築実施設計図」が納品。
   5.  地盤調査を委託。65m/m×25mを4地点。床付面地盤は安定した洪積砂層であることを確認。
  10.  仮設の資料収蔵庫として、プレハブ2棟(延べ面積 214.39u)を新設。
  11.  建設予定地内の既存建物等を解体。
  11.16 建設工事分の入札を執行――落札せず。
  12. 8 庁議で「入札が不調に終る終らないにこだわらず、国の方針(公共投資の抑止策)に協力するとして、建設を繰り延べする。」ことに決定。

 昭和49年
   6.  市議会定例会で、新築工事費の総額と年割額の変更を可決。
     総額 725,000,000円(旧 482,000,000円)。   開館予定 51年5月。
   7.17 設備工事関係を入札――落札(4業者)226,200,000円。
   7.20 建築工事を入札――落札(鹿島建設株式会社)489,000,000円。
   7.30 市議会臨時会で、博物館新築工事関係の契約を原案どおり可決。
   8.13 新築工事 地鎮祭。
  12.14 博物館建設工事費49年度分県費補助金 70,000,000円と決定。

 昭和50年
   3.24 市議会定例会で、展示製作委託事業を50、51年の2か年継続事業として実施することを可決。
     事業費 145,000,000円(内50年度分 45,000,000円)。
   6.27 市議会定例会で展示製作委託契約、一般会計6月補正(プラネタリウム購入費など)を可決。
   6.30 樺O青社と、展示製作委託契約を締結。契約額 137,690,000円。
   7. 1 特別研究員委嘱 2名。
   7.31 褐ワ藤光学研究所と、プラネタリウムの購入契約を締結。契約額 34,900,000円。
   9.26 50年度分県費補助金 50,000,000円と決定。
   9.30 建築工事関係 完成検査。
  10. 3〜14 設備工事関係 完成検査。
  10.16 鹿島建設から、建物の引継ぎを受ける。
  10.20 博物館内へ準備室を移転。
  11. 1 館内での展示製作工事開始。
  11.29 丹青社と、天文展示製作委託契約を締結。契約額 3,914,000円。

 昭和51年
   2.27 博物館建設工事費国庫補助金 86,000,000円と決定。
   3.26 「平塚市博物館の設置および管理等に関する条例」制定。
   3.30 「平塚市博物館の設置および管理等に関する条例施行規則」制定。天文展示完成検査。
   4. 1 「平塚市博物館」と名称を改める。
   4.24 展示製作完成検査。
   4.26 落成記念式典、332名を招待。
   4.27〜28 特別公開日。資料寄贈者・協力者を中心に 739名を招待。
   5. 1 一般公開。

2.文化センター構想と博物館
 昭和42年の文化センター基本構想には、「既定の敷地を緑地公園化し、図書館を中心に博物館等を点在させ、さらにこれら施設と庭園をあい調和させ、四季の花壇を計画的に造成し、市民全部が気軽にまた身近に親しむことのできるような教養の場・いこいの場として文化センターを建設する。」と述べられている。センターを構成する施設としては、教育研究所を併設した図書館・青少年会館・美術館の性格をあわせた博物館が予定されていた。また特に敷地全体の公園化が計画の眼目であった。
 博物館については、「本市域の実情に即した地方色のある、利用者のための教育的配慮をほどこした、機能的にバランスのとれた市民の親しみやすい施設」として「美術・考古・民俗・産業などの常設展示、市民の作品を発表できる特別展示、成人教育や学校教育と連携した教育活動を行ない、調査収集保管などの機能も発揮できる館」と性格づけられていた。
 文化センターを構成する3館は、機能の有機的つながりを持つと同時に、全体のデザイン的な統一がはかられ、そのため3館全体の設計コンペが行なわれた。博物館の建設にあたっても、特に建築の外観についてはそのことが基本的条件となった。

 

 

3.建設の「趣旨・目的・性格」
 45年8月に委嘱された博物館建設研究調査委員会では、「文化センター基本構想」を土台に博物館の構想が検討され、46年2月に「趣旨・目的・性格」がまとめられた。館の建設は大すじにおいて、これの上になりたっている。

趣旨 本市は神奈川県のほぼ中央南部に位置し、現在の市域のほとんどは、沖積地の上に開けた砂丘地帯である。こうした地形から、かなり古い時代から、すでに街道に沿っていたようである。特に江戸幕府によって伝馬制度が確立された際には、東海道の一宿駅として形態が整い、これが本市発展の基礎となったといえよう。
 日本の歴史の上からは、本市について特筆すべきものは少ない。したがって史跡や文化財には比較的恵まれていない。しかし、市民がより価値のある生活を営むことを願い、さらに将来への伸展を期待して、郷土の過去および現在に何ものかを求める場合、必要なものはそのような史跡や文化財のみでなく、ひろく、自然・社会・人文にわたる総合された平塚の姿であろう。
 一方、産業技術の高度の発達に伴い、人間の生活までも変革を余儀なくされている。こうした中にあって、市民の教育文化への関心はますます高まりつつあり、文化活動は活発に行なわれている。
 こうした市民にこたえ、市民の教養の場・市民の憩いの場を提供するために博物館を設置していくものである。
目的 市民が、みずからの生活の場を、自然的にあるいは文化的に展望することにより、現状を見つめ、将来の夢を育て、さらに市民としての自覚と誇りを持つことをたすけ、精神的な豊さを得られるような場を提供し、あわせて望ましい人間形成に資することを目的とする。
性格 本市をとりまく地域の歴史をさぐり、現在を明らかにするとともに、将来のくらしと文化を創造する核として、特色のある地方博物館の性格を持つものである。
(1) 市図書館・県立青少年会館とともに、地域文化振興のセンターを形成する。
(2) 文化財・文化的資料等の収集、保存、展示、教育、研究の場としての機能をもたせる。
(3) 市民の教養と生活に密着した実物教育機関として、自然・歴史・民俗・美術・科学などの部門をもった総合博物館とする。
(4) 特に、街道関係資料の収集、保存につとめる。
(5) 学童の科学教育部門に意を用いる。

4.地域博物館の構想

 「文化センター基本構想」と「趣旨・目的・性格」を受けて、具体的な館建設の仕事を開始した博物館建設準備室では、「新しい地域博物館づくり」を掲げて、建築・展示・運営のプランニングにあたっていった。
 従来、地方都市の博物館は、考古・民俗などの単科博物館で、しかも行政区域の中だけの資料を扱うものとして計画されるケースがほとんどであった。しかし現実の生活の中にあっては、自然条件と人間生活は切り離せない関係にあり、専門家ではない一般市民にとっては、一つの事柄を学問分野にとらわれないいろいろな見方から知ることのできるような博物館こそ必要ではないかと考えた。そうした博物館は、「総合博物館」と呼ばれるべきものだが、一般に数部門の展示室が併設されている館が、安易に総合博物館と呼ばれてきたようである。平塚では、各分野の視点を複合させた展示や普及活動、さらには調査研究を行なう真の「総合博物館」を目標としたわけである。
 また、地域博物館として地域の資料に立脚するのは当然のことだが、自然でも人文でも、行政区画にとらわれた狭い視野では把握できないことが多い。さらに、平塚に通勤する昼間人口をも対象にすることを考えると、より広い地域を館のフィールドにする姿勢が必要と考えた。そこで地理学的な相模川流域に金目川流域を含んだ「相模川流域」を、調査研究を始めとする館の諸活動のフィールドとすることを計画した。
 相模川流域をフィールドとする総合博物館として、その課題を、館のテーマとして明確に打ち出すことにし、「相模川流域の自然と文化」をそのテーマとした。館のシンボルマークはこのテーマを表現するものとして、デザインされたものである。


 また、平塚市博物館は、観光地や大都会に立地した博物館ではないので、地域の市民に何度も足を運んでもらうような密接なつながりが、絶対条件として要求される。そのため、常設展示だけでなく、活発な教育普及活動を行なうこととし、特別展示室、科学教室などの部屋を意図的に設けた。学芸員の採用を、準備段階から重視したことも、市民とのつながりを保障する条件整備の一つであった。
 教育普及活動を重視し、テーマを持つ総合博物館としての「地域博物館」という構想は、全国的にもモデルのない新しい構想であり、準備室開設後間もない時期に打ち出され、徐々につめられていったこの構想が、建設準備のプロセスの基本的な理念となった。
 館の建築・展示・運営の計画にあたってはこうした基本構想と、博物館の機能図・空間構造図などを資料として準備し、検討を進めていった。図4は、建築計画のもとになった空間構造図である。


 博物館づくりの過程では、建築・展示・運営計画のすべてがからみ合って進行しなければ、機能的な館は望めない。そのため、運営計画・人員配置計画・備品購入計画なども第1次案を早期に提出し、建築設計にもそれが反映されるようにした。各計画は、関連づけながら度々修正し、関係各位の審議を受け、最終案ににつめていった。

平塚の博物館構想
          前準備室長 島崎康信
 48年3月末をもって、建築本体の実施設計も完了することになりました。
 博物館建設研究調査委員の藤田経世先生ほか9人の諸先生方はじめ、内外の諸先生のご指導をいただきつつ、丸3年間の準備活動の、ひと区切りを迎えたという感じです。
 そこで、ここにごく概略ながら、当博物館の構想を、わたしなりの角度から申し述べ、更に諸賢の御教導をいただきたいと考えるものです。

基本理念として
 わたしたちに与えられた、当博物館建設についての基本構想は、延3000uの建物。自然・歴史・考古・民俗・科学・美術を総合したもの。別にある図書館・青少年会館と一体となった文化センターの一環をなすもの。そしてその理念としては、”市民の憩いの場、教養の場となるべきもの”というものでした。
 21世紀にあと間もない現時点に立つ、地方博物館の果すべき役割は、どうあるべきかについて、わたしどもは、前述の基本構想をふまえて、要約していえば、これを”自然と人間の調和を考える博物館とする”と考えました。
 わたしどもは、現代の物質文明を悪魔視し、または否定しようとは考えません。全面的に礼讃し肯定するものでもありません。
 人間の前頭葉の働きはすばらしいものではありますが、残念なことに、物質文化の進展に対して、精神文化の発達の遅れは、今は誰もが、これを否定し得ないであろうと思います。これが問題であると考えました。
 物質文明の巨大な発展の上にあぐらをかいた人間は、今や尊大になり過ぎ、自らを地球上の300万種生物の一種にしか過ぎないことを忘れてしまいました。
 お釈迦様の掌の中を、觔斗雲で得意がって飛び廻っている人間。あまりにも自然から分離してしまった人間は、自然に帰り、自然を畏敬する心を復活しなければならないと考えました。

自然への帰依
 地方博物館である当館は、平塚、相模川流域というこの地において、先人がどのように、自然と協調して生きてきたかを知り、その知恵に学ぶべきだと思います。
 したがって、その展示は、@相模川の生成と人間、A家(集落)と人間、B道(交通)と人間、C相模川流域文化、の4つに大別した課題展示を考えました。
 高価な、貴重なものばかりを並べた、骨董屋まがいに、或いは、古墳あらしの自己満足の場にすることは、したくないと思います。
 3階にはプラネタリウムを設けます。館の運営上は問題があろうかと思いますが、これを観る人に、或いは夢を、或いは人間そのものを、考えさせてくれる一つの手だてになることを期待しているわけです。

人間の生き方を考える
 人間は労して得たものでなければ、価値を認めないといわれます。視聴覚器材は、その用い方によっては、人間を思考力のないものにすることを十二分に考えたいと思います。矢張り”物を見、手にとって、自らが作ってみて………”ということから、先人の工夫努力や哀歓まで、思い知ることができたら………と思います。
 また思考力は、時間と場所を得ることにより、共同思考を行うことにより高められると思います。当館は、職員も市民と共に考える、という姿勢を持ちつづけたいものだと思っています。
 具体的にどうするか? については、また折を見て私見を申しあげましょう。乞御批判。
      (「博物館通信」48年3月号より)