X 建設準備室の活動

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X建設準備室の活動
1.建設準備の組織
 45年8月、博物館建設業務担当主幹が配置され館建設の具体的な歩みが始まったが、翌46年4月教育委員会内に博物館建設準備室が設置され、本格的な準備が開始された。室長1名、学芸員1名でスタートした準備室は48年8月に学芸係、管理係の2係制がとられ、機構が整備された。その際管理係に学芸事務職員として学芸員有資格者を配置し、準備業務が2係の連携により効率的に進行するよう配慮した。
 学芸員相当職員については、46・48年度各1名、49年度3名、50年度3名、51年度1名の計9名の採用をみ、51年5月の開館時には、館長・副館長以下13名のスタッフであった。準備室段階でこのように多くの学芸員が採用されたことは全国的にも少ないケースで、準備室の活動を支えるもっとも大きな力となった。しかしながら、館の規模に見あった最低20名の職員という構想は、地方財政危機という状況の中で実現することができなかった。
 建設準備の主な案件については、準備室で立案し、建設研究調査委員の会合ではかられ、教育委員会議または文化センター連絡会議(助役、教育長、関係各部課長)で検討された後、予算を伴なうものは市議会の議決を受けた。
 工事の施工や、物品の購入については、通常の市の手続きに基づいて進められた。建築工事は建設部建築課が担当課となり、設計管理にあたった。展示工事については、準備室が担当課となり、直接の委託事業として行なった。完成検査は、実際的な検査をそれぞれの担当課が行ない、最終的に工事検査室による検査が行なわれた。物品購入については用度課が担当した。このように、館の建設は市役所各部局の協力のもとに進められたものである。
 展示工事と建築工事の調整、プラネタリウム購入とドーム工事の調整など各担当課、業者にまたがる事項は、準備室が窓口となり、調整にあたった。

 

 

2.建設準備室の活動
(1)活動の概要
 準備室の主な仕事は、館の建築・展示・運営について、構想をねり、資料を準備し、図面の検討チェックなどを行なうことであった。そのための部内や他機関との会議が仕事の大きな部分をしめた。一つの会議にあたっては、必ずたたき台となる原案と、それを裏づける資料を準備するようにした。そのため、すべての面で学芸員によるプランニングがいかされていることが、本館の特色と自負している。また、そうした直接的な準備の仕事と同時に、基礎的な収集調査や、市民に館建設をPRする普及活動にも力を注いでいった。
 準備室としての仕事は、学芸係・管理係が一体となり、館建設に向けたプロジェクトチームとして動くという方針で進められた。学芸員も、いちおう担当分野を持つとはいえ、すべての学芸員が協力しあい、共同して仕事を進める方向を目ざしてきた。展示の個々のコーナーについて2名以上の学芸員が企画に協力したり、発掘調査に全学芸員が協力したのも、そのための一つの試みであった。専門分野にとじこもることなく、博物館を作るという共通の地盤にたって仕事を進めたことは新しい総合博物館づくりの出発点となるものであった。しかし、一方で発掘調査の精度が落ちるといった問題点や、肉体的協力に終わって総合調査にまで発展しなかった限界も浮かびあがり、今後の課題となっている。
 プロジェクトチーム的なやり方は、スタッフがふえた段階では、かえって非能率な面も現われたが、全員が問題を共有し、話し合って解決を目ざすことは、決して無駄ではなかったと考えている。

 

(2)調査活動
 平塚市周辺では、地域的な資料の集積や調査が少ない現状であった。展示計画を考えるうえでも情報不足が痛感されたことは前にも述べた通りである。そこで準備室の学芸員が、積極的な調査活動を行ない、一方で各界の方々に委託調査をお願いした。46年度の展示資料基礎調査(表7)は主に市内の小中学校の先生方、47〜49年度の委託調査(表8)は、各分野の専門家の方々に依頼したものである。こうした調査結果は、展示の随所にいかされている。

 

 


 学芸員が自主的に行なった調査には、「相模川流域の自然と文化」を把握するうえで地域の基礎調査にあたる性格のものと、より直接的に展示を構成するうえで必要な調査があった。
 考古関係では、表5にあげたような発掘調査を行なった。赤坂・上の入A・王子台の発掘は平塚の古代集落を解明し、展示を裏づける調査として準備室が予算を組み、自主的に実施したもので、調査費の予算計上の先がけとなるものであった。また赤坂遺跡で発掘された住居址は市内で初めて確認された住居址となった。49年度からは、市内岡崎小学校の新校舎建築に伴なう行政発掘を、社会教育課の担当のもとに実施したが、これは、2年度で90日間をこえる長期調査となり、大きな成果をあげた。その成果は「石はどこから ―発掘された石―」や「稲の道」にいかされている。


 民俗関係では、資料収集と並行して調査を行なった。特に相模川の漁撈関係、須賀の海の漁、籠屋・桶屋・舟大工など職人仕事の調査が、まとまった内容のものとなり、「川のさかなと漁」「海と生活」「相模の民具」などに展示されている。市内の古民家の分布や特色の調査は「相模の家」にいかされている。庚申塔など石造物の所在調査も行なった。
 歴史関係では、岡崎・土沢・中原・大神地区などで古文書所在調査を行なった。特に岡崎、今井家文書からの「小田原衆所領役帳」の発見は大きなトピックであった。また「平塚宿」模型製作に関連した調査も行なった。
 生物関係では、相模川の下流に生息する魚・昆虫・植物などの収集調査を行ない「川と生物」「川のさかなと漁」に成果を展示した。また市内の自然調査として社寺林の現況調査を行なった。
 地質関係では、「地下をのぞこう」の基礎資料として、平塚市周辺のボーリング資料の収集にあたりその整理を行なった。また「相模平野のできるまで」「石はどこから ―川原の石―」を裏づける調査として二宮化石層の調査や、相模川の礫の調査を行なった。
 さらに展示に関連して広域的に行なった調査としては、「石器の道」に展示した各地の黒曜石原石の収集などがあった。
 これらの調査では、一般的な調査方法に加えて、展示できる資料の収集、館活動にいかせるような写真・スライドの撮影を特に考慮し、一部の調査では、ビデオ・8ミリの撮影も行なった。
 調査の成果となった事がらは展示各コーナーにいかされたほか、「情報コーナー」にパネルとしても見られるようになっている。また準備室時代の調査成果の集積が、開館1年間の特別展開催の原動力となった。
 博物館学的な視点からの調査として、他博物館の見学や、学芸員との交歓も積極的に行なった。学芸員が準備室時代に見学した博物館は全国で200館以上に及び、活発な活動を行なっているほぼすべての館と出版物、情報の交換を行なった。これらのことも、館の展示や運営を考えるうえで大きな参考になった。
 そうした調査の一環として、全国の博物館の出版活動の概況を知るためのアンケートを、全国130の館を対象に実施した。表6はその集計の一部である。博物館の出版物としては、リーフレットが主体であり、館報・目録などを出している館は意外に少なく、日本の博物館の貧困さを考えさせられた。他の面でもそうだが、こうした調査を行なっても、運営計画をたてるにあたってモデルとすべき館が少ないのが、むしろ悩みとなった。

 

(3)収集活動
 資料の蓄積の少ない状態でスタートした準備室は寄贈受け入れ、採集、発掘などの方法で、地域資料の積極的な収集につとめていった。平塚市では39年頃から社会教育課が民具の収集を試み始めていたが、準備室開設後は寄贈が飛躍的にふえ、多くの市民の協力のもとに約900点にのぼる民具を収集することができた。
 これらの資料は、当初、旧海軍火薬廠の建物などに保管していたが、建築工事のための既存建物の解体に伴ない、48年度に2棟のプレハブ(床面積計 214u)を建築し、保管場所とした。このような建物を持つことができたのは資料の整理保管のうえで大きな力となった。
 他部門でも、資料収集に努力し、各々数千点をこえる資料が収集された。しかし、これらの資料の整理については、十分行なうことができなかった。

 

 

(4)研修
 学芸員としての知識や技術を学ぶため、46年度と50年度に職員各1名を、県施設に長期研修に派遣した。
 また、準備室内でも、新人学芸員に対して、入室時に部内で研修を行なうようにした。

(5)教育普及活動
 市民にとって、決してなじみ深い施設とはいえない博物館をつくっていく過程では、博物館の持つ役割や建設するメリットを広くPRし、市民の理解をえる必要がある。そのため準備室では、あらゆる機会をとらえ、博物館の建設のPRをはかった。主な活動には「博物館通信」を中心とする出版物、自然観察会や発掘見学会などの行事があげられる。学芸員が日々の調査活動の中で接触する市民に対しても、博物館を話題とし、理解を求めたことはいうまでもない。
 博物館のニュースは、新聞紙上も時折にぎわわせた。ユリノキを保存するため建物位置を移動したことについての「ユリノキは残った」の記事、発掘の成果を伝える数回の記事などは、館のPRとしても効果的なものであった。また市の広報紙である「広報ひらつか」でも、建設の進行がたびたび報道された。

「博物館通信」の発行など
 「博物館通信」は46年5月、開設後間もない準備室から、島崎室長自筆のリコピーで誕生したものである。当初は、展示資料基礎調査担当者との連絡誌として、基礎調査各部門の中間報告が主な内容となっていた。47年5月の第7号から、より広い、館建設のPR誌に性格を改め、寄贈者・協力者などの市民、各学校、他博物館にも配布するようになった。内容的には、地域の自然と文化について埋もれた人材に執筆の場を提供する地域の小研究誌としての性格も持たせていった。第8号から、市役所内でのオフセット印刷を利用することができるようになり、第20号からはタイプで紙面を整えることができた。開館時、行事案内を中心とした「はくぶつかん」に役目を引きついで、48号で終刊するまで、ほぼ毎月6〜8ページのものが、発行された。
 記事として扱われた内容には、準備室の活動報告、学芸員の研究小レポート、館の建築・展示の構想、他博物館の案内などいろいろなものがあるが、学芸員がどんな博物館を作ろうとしているのかという「地域博物館構想」の表現にはとりわけ力を注いだ。
 また、何人かの方から貴重な原稿の投稿があり紙面にいろどりを添えることができた。「平塚博物誌」「相模国封戸租交易帳の研究」を長期間連載させて頂いた添田武雄氏、近世平塚の商業などについて度々投稿を頂いた杉山久吉氏、「鎌倉右大臣家集」の高瀬慎吾氏、「平塚の野外植物」の守矢淳一氏、「高麗山の緑」の宮沢敏雄氏らが主な投稿協力者であった。また市民からの聞き書きをもとに編集した「震災50年」も連載された。寄贈者に向けた記事として、寄贈品コーナーを設け毎号民具の実測図を掲載した。
 「博物館通信」は、後半では常時1000部内外を発行していたが、主な配布先は、寄贈者約 180名、協力者約 110名、博物館約80館、学校約40校などであった。この通信は、博物館関係者からは、他に例を見ないものとして注目され、また定期的な発行により市民とのパイプを保っていくうえで大きな役割を果たしていた。
 通信以外の出版物としては表12のようなものがあり、これらの多くは市役所文書課印刷室のオフセット印刷によるものである。図も、墨書きした原図を写真撮影し、実寸大に縮小し、版下を作成することで、鮮明な印刷をすることができた。印刷室の協力で、こうした出版が可能であったのは大きな意義のあることであった。

 

 

 



自然観察会
 平塚周辺では、地域の自然について研究者が少なく、自然系の野外行事が行なわれたこともなかった。そこで49年4月に、自然史系の学芸員が2名そろったのを機会に、一般に参加者を募集する自然観察会を実施し始めた。これは、身近な自然に対する市民の関心を少しでも高めていくこと、都市化の波が押しよせ自然の変貌が激しい平塚で、その移り変わりを市民と共に見つめていく場とするため企画したものだった。同時に参加者への博物館のPR、学芸員自身の行事運営の実習、開館後の行事計画の参考資料収集などをあわせて意図して行なった。
 観察の内容は、「関東ロームの観察」のように特定テーマを定めた場合と、動植物・地質全般にわたって観察をする場合があった。いずれの場合も森・浜口が運営にあたり、外部から講師を招くことはしなかった。
 参加者は主に「広報ひらつか」で募集し、市周辺にコースを選んで実施した。準備室段階では隔月に13回実施し、のべ参加人数は約 300人を数えた。スタート当初は反響が少なく、担当者をやきもきさせたが、徐々に参加者も増え、事故もなく順調に実施することができた。毎回B6版横型8ページ程度のテキストを用意し、観察に役立てたが、いろいろなスタイルを実験するため、B5版のもの・B6版たて型のもの・カード方式のものなどを工夫して使用してみた。
 参加者の統計からは、市の中心部からの参加者が圧倒的に多く、周辺地区の参加が少ないこと、小学生に年令がかたより中高生が特に少ないなどの問題点が明きらかになった。
 これらの体験から、開館後の自然観察会の運営プランが企画されていった。

 



発掘に伴なう普及活動
 調査の項で述べたように、上の入B遺跡の発掘は、長期間に亘って実施された。遺跡の発掘現場は遺跡への理解と関心を高める普及活動の絶好の場であるとも考えられる。そのため発掘期間中には、作業に支障のない範囲で、できるだけ見学会などを開くようにした。また発掘現場が小学校の校庭であったため小学生の関心にも強いものがあった。
 特に意識的に普及活動を行なった第一次調査では、表14のような活動を展開し、6800部の「発掘ニュース」を発行し、 700名を越す見学者を迎えた。しかし一方で、PRが行き届きすぎたためか発掘中の土器数点の盗難が発生したのは残念なことであった。
 また、上の入遺跡の発掘にあたっては地元の西海地稲作研究会に調査補助員として協力を仰いだが長期の調査の中で研究会員は発掘技術に精通するようになり、遺構や遺物に対する理解も急速に深まっていった。そうした体験の中から、51年1月には縄文時代の住居址の上屋の復原が研究会の手で行なわれ、大成功をおさめた。博物館と市民との関わりの一つの形として忘れ難い一こまであった。

 

3.建設研究調査委員と特別研究員
 博物館の建築・展示・運営について、有識者の指導をあおぐため、教育委員会は45年8月、博物館建設研究調査委員を委嘱した。委員は、市の文化財保護委員、社会教育委員、学校関係者、学識経験者の中からお願いし、発足時に9名、46年4月から10名の方に任にあたって頂いた。
 委員会の開催は、視察行事を含めて、7年間40回にもおよび、熱心な討議と助言は館建設の大きな力となるものであった。
 また50年度には、建設の最終段階での指導をあおぐため、博物館学の権威である2名の方に、特別研究員を委嘱し、展示の監修をお願いした。
建設研究調査委員
 藤田 経世 平塚市文化財保護委員 座長
 高瀬 慎吾 平塚市文化財保護委員
 鈴木 マサ 婦人団体役員 元社会教育委員
 飯田 武知 日産車体弘済会常務 工業会代表
 山本 x一 日本大学教授 元教育委員
 府川 亀男 花水小学校長
 古谷 誉明 前江陽中学校長
 見上 敬三 横浜国立大学教授
 宮脇  昭 横浜国立大学教授
 故 吉野秀雄 元平塚市文化財保護委員
特別研究員
 樋口 清之 国学院大学教授
 柴田 敏隆 全日本博物館学会理事

準備室をふりかえって
 前副館長 山本弘
 平塚市が教育文化都市を指向していくうえで、どうしても欲しかった施設、博物館です。準備室が発足してから完成を見るまでに6年の歳月が流れたわけです。その間、本当にいろいろなことがありました。それらを日記を折り交ぜながら、想い起してみたいと思います。

 47.11 準備室の会議は、相手のその場に臨む心組みの探り合いから始まる。話しながら自分の考えをまとめようとしている場合もある。話がかみ合わないわけである。
 48.10 工事費の値上がりがひどい。建築計画の変更もやむなしと、検討に入る。あちらを削り、こちらももぎ取り、まるで蠅男の姿である。「冷暖房設備をボツに」のチェックに、嶋崎室長「外部装飾をそのままにしておいて、職場環境をおろそかにするのは納得できない」と強硬な反論。マボロシの博物館としないための水際作戦。どちらに軍配が挙るのか、ともかく博物館の建設の危機である。
 48.12 庁議で、「着工を49年度6月時に延ばす」との結論が出された。またまた先行きは暗くなった。軌道に乗りかかると必ずなにかが起きる。「博物館はいつ着工するんですか」質問に、あれもお話ししたい、これも説明したい、だが言葉にはならない。”語ることの多くあるとき、人は多くを語らない”という。
 アカギレができた。30年ぶりである。労働仕事には慣れているつもりだが、大分手が荒れた。「ひどいざらつきね、さわらないでね」と、女房は膚に触れさせたがらない。杭打ちは相変らず続いている。「着工が遅れて、することがないだろう」と、ひやかす者もいる。この奴郎!である。
 49. 1 展示の具体化で、場面のひとつひとつを事細かに決めていく。なぜそこにそれを置くのか、なぜそれを表示しなければいけないのか、口角泡を飛ばしている。とどのつまりは、「博物館てなんだ」と、むし返す。どうどうめぐりである。うちの連中、まったくしつっこい。ここいらあたりは、ディスプレイ業者も立ち入るすべがない。どうしてよいのかとまどうばかりである。博物館が技法の世界でないことが飲み込めてきた。
 50. 3 工事現場を撮影中、すんでのところで3階の足場から真逆さまの呈、幸いに8ミリ撮影機の一部を毀した程度で墜落は免れた。落ちれば、「馬鹿と煙は……」と どうせろくなことはいわれない。それでも懲りずに登る。
 50. 3 事実を見せる。それでよいのか。「それではストリップだよ」の声もかかる。何をいいたいのかが、お互いによくつかめていないようである。どうなるのかな、心配である。

 このようにして完成はしましたが、ともかくあまりにも多くの犠牲を払い過ぎました。何故こうアクシデントが続くのかと、神との対決を迫り、いささかあきれもし、世の無情を恨みもしました。「こじっかりやれ」、「給料分働いたか」、まだ耳元に残る嶋崎室長の言葉。「20年長生きできる星を見た」といって、星の勉強に取り組み始めていた岩嶋さん。山偏の「嶋」が2人共と、ジンクスに怯えもし、三度目のないことを願いもしました。
 高価なものが並べてあるぐらいにしか受け止めていなかった私です。その道の専門家諸氏から、平塚市がひややかな目で見られていたことは確かです。”恐いもの知らず”ということでしょう。「トウハクってなんだ」といって笑われた私も、「これは大変なしろものだぞ」と感じてきたわけです。情報検索の終着駅でもある博物館です。人に適度の刺激を与えられるだけの、ものを常に用意していける力を持ち備えていってほしいと願うものです。

 

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