三嶋神社・石碑

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石仏を調べる会の会員の方)ここあのしばらく前までは、全部転がっておりましたんですけれども、今はなおされてますね。??この近辺の明治以降神社やお寺がまあ整理統合された時にあちこちに転がったようなものを集めてここへ祭ったといったような格好ではないかと??。??とかいろいろございますんで、ご覧になって下さい。

(浜野)これはあの??。平塚市内の道了講とか言って、講を組んであのお参りしているような講中っていうのがあるんですけれども、昭和22年、明治22年ですね。

(浜野)これはあの御岳大神(おんたけだいじん)御岳大神(みたけたいじん)でまあこれあの木曽の御岳山か武州の青梅の御岳山かっていう、まあ僕らまだ良く判らないんですけども、僕の個人的な考えではこれは青梅の御岳山であろうっていうふうに思うんですけれどね。あの平塚市内でも、えーと御岳講を組んで、あのお犬様のお札っていうのを、まあ泥棒よけのお札なんですけども、そういったお札を戸口に貼っている家が真土なんかでは見かけるんですよね。であの市内でそういう御岳講中っていうのもいくつかありましたんで、おそらくあの青梅の方だとは思うんですけども、この御岳講っていうのはあんまり平塚ではそんなに聞かないんです。これ明治22年ですか。同じですね。同じ人が同じ年に??してる。

(浜野)こちらがえーと慶応3年ですか、金毘羅大権現と大山不動明王。両方ともえーと漁業の神様として信仰されています。金毘羅さんていうのは四国の香川県のえー江戸時代から金毘羅参りっていうのは、まあ盛んでして、あのここらの人も船であのまあその大漁になりますようにっていう形であのまあ昔からお参りに行っていたという話しを聞いています。それからあの大山不動なんかもえー例えばブリの豊漁なんかがあった時には万祝(まいわい)っていう打ち掛けのような鶴亀の模様が入った縁義の良いあの着物を船主からえーそれぞれ乗組員がえー貰いましてそれを着て、みんなでそれを着てあの大山にえーまあお礼参りにえー出かけたとか、あるいはその漁がない時には、願をかけに大山に行ったとかということで、えーとまあ須賀の漁師から非常に信仰を集めていて、っていうのはやっぱりあの相模湾の沖に出ると大山っていうのは非常にこう、まあ平塚どっから見ても目立つんですけれども、そうやってあの海の中のこう場所を知るのに山当てっていう言葉がありまして、あの陸地のこう大きな建物ですとか、えー山なんかを目印にしてその海の中の場所を知るっていうことで大山っていうのが非常にこう重要な位置を占めているっていうことがえー信仰の元になっているんだと思います。それから農村ではあの雨乞いで大山の滝からあの竹筒に水を入れてそれをあの自分の所の畑に撒いたりですとか、そういった形でえーまあ非常に身近なえーまあ山ですけども信仰してる人が非常に多いっていう??。であの大山不動明王って書いてありますけれども昔はその大山寺とそれからえー阿夫利神社というふうに、今あの山頂とそれからケーブル登った所に下社とそれから上社と、上に上社がありますけどもえー大山不動明王っていうのが大山寺のえー御本尊でありまして、そういった形であのまあ大山の道標なんかもこれから八王子道にいろいろ出てくるんですけれども、そういった時は不動明王の姿を刻んだ石仏が一緒にのってたりします。

 

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