V 展示

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V展示
1.展示設計と製作の経過
 展示は、市民が博物館と接触する最初の場であり、博物館の顔ともいうべき部分である。博物館の基本構想に基づき、しかも見て楽しい展示を行なうよう、慎重に設計を進め、製作を行なった。そのプロセスは図9のようなものであり、設計と施行にあたった樺O青社の担当スタッフと準備室がプロジェクトを組み、作業を進めた。
 準備室では、46年8〜10月に展示マスタープランを作成し、12月に丹青社に展示設計を委託した。両者の打ち合わせの中で展示のテーマ・ストーリー・各コーナーの計画がにつめられ、47年3月、丹青社から展示計画書(B5・50p.)、展示設計書(A3・50p.)、特記仕様書、予算書が納品された。そこに至るまで、基本構想について両者が共通の理解に立つには、長時間の話し合いが必要であった。
 その後、開館予定が延期されたため、スタッフや資料の充実にともない、変更が望ましい箇所も現われてきた。そのため内容の手直しを行ない、49年6月に実施シナリオ(B5・100p.)を作成した。
 50年6月に、丹青社と展示製作委託契約を締結し実施設計図(A2・180p.)をもとに、製作工事が開始された。11月には館内での工事が始まり、51年4月に完成をみたわけである。
 また、別途工事として、3階のプラネタリウム前室に天文展示を製作した。これは準備室で50年2月に第1次プラン、5月に展示計画書を作成したもので、6月に丹青社と製作委託の契約を結び、51年3月に完成した。
 展示の準備は、その基礎となるデータや資料の収集調査と常に並行して行なわれた。一つのコーナーが完成するまでの作業プロセスの例を図10に示してみた。

 

2.展示の基本構想
 平塚市では、常設展示にたえうるような文化財や資料がきわめて少ない状況にあった。そこに博物館を作り、展示を行なうためには、生活の中の身近なものに素材を求め、それをいろいろな角度から見直し、再発見するような方向が唯一の道であった。そしてむしろそのような展示こそ、地域博物館にふさわしいものと考えた。
 そのため、予算を投入して高価な資料を購入することもやめ、オリジナルな調査や、展示法の工夫で、効果的な展示にすることを目標とした。身近なものも、それに学問的焦点をあて、展示を構成するデータと資料をえるには、充実した調査が必要である。そのため準備室段階でも学芸員の採用を重視し、そうした調査をできる限り行なえるようにした。
 こうした条件の中で、展示の計画をたてるにあたって、部門別展示や分類展示はとらず、一つのテーマに基づいたストーリーで全体を構成するテーマ展示を基本的な考え方とした。シナリオを検討する中で、最終的には「相模川流域の自然と文化」をメインテーマに、「相模平野と人間」「道―その文化をもたらしたもの」などをサブテーマとするストーリーが決定された。「道」のテーマは、街道の展示という要請を受けて立案したものである。
 各コーナーの展示にあたっては、身近なありふれたものを素材に、再発見的な展示をすることを意図した。そのため、民家の屋根の一部を葺かず、作業の工程を見せたように、ものをふだんと違った角度から見られる展示を考えた。また石器の材質に理化学的方法でアプローチしたり、川の魚を生物的な眼と漁撈という民俗的な眼で扱うような、各分野の複合した展示も試みた。そうした姿勢は、地域の総合博物館が調査研究の上でも、目ざすべき課題と考えている。
 「もの」の組み合わせでテーマを表現するテーマ展示にあっては、「もの」の持つ多面的な情報を引き出し、「もの」に効果的に語らせるいろいろな展示手法が必要となる。例えば、土器を並べただけでは、それを使っていた人の生活まで想像させることは難しく、復原模型やジオラマが伴なって初めてそうしたことが可能になる。そのためコルトンや写真・ジオラマ・パノラマ模型・復原模型・飼育展示・ポラビジョン・ナレーション・映像などをできる限り利用し、効果的で変化のある展示にするようにした。
 観覧者が展示に参加できる場面も多く作るようにした。8つのコーナーに押ボタンで作動する電気表示や模型を設け、また引き出しパネルや、手で回転させて両面を読むパネルを工夫した。実物に手でふれることのできる露出展示もできるかぎり行なうようにした。
 市民に何度も足を運んでもらうことを目ざした博物館では、常設展示にも常に変化があり、館の調査研究の最新の成果が反映されることが必要である。そのため定期的展示替えをするコーナーを設け、また特に2階の展示室は、近い将来の展示替えに対応できるようケースの仕様にも配慮が加えられている。特別展・屋外展示・収蔵室の限定公開・さらには活発な教育普及活動も、展示を補なっていくものとして計画した。

 

3.設計・施行上の留意事項
展示室と動線
 展示室のフロアーに、ストーリーに基づいて動線を設定し、各コーナーの位置を決めて、壁体やケースを設計製作した。
展示ケース
 ケースは各コーナーの展示物や展示手法によって、それぞれ仕様を決定した。そのため、規格化されたケースとは異なる、効果的な展示空間を作ることができた。ケースの仕様の代表的な例を示すと、図11のようである。
 また、展示替を予定したコーナーでは、多目的に使えるケースとなるよう配慮した。「相模の民具」の可動メッシュパネルはその例である。
 「五領ヶ台のくらし」と「塚越古墳とむら」の球形ドームは、特に前者は大型で木工事では割れのはいる危険があるためFRP樹脂で製作した。
 なお展示ケースは当初、後の面をケンドン式にして、ガラスはすべてフィックスにする予定であったが、展示物のとりつけに難があるため取りやめ、ガラスも前あきとなった。そのため管理通路も部分的なものになった。
照明
 人工照明を計画し、展示物は無窓とした。
 通路照明は歩行可能な50〜70ルックスとした。展示ケース内などは快適に見られる照度と、照明による展示物の劣化、退色の防止を考慮して300ルックス以下におさえ、通路とケース内の照度比を1:5に保持するようにした。ガラス面の配置にも気をつけたので、ガラス面に他のコーナーの光が反射することは少なく押えることができた。
 照度と色温度の関係から、照明は白色螢光灯と白熱灯の混色を行ない、40W螢光灯約3灯に対し60W白熱灯1灯を使用し、一部では60Wスポットも用いた。なお螢光灯は3〜7%の紫外線を含むため紫外線防止処置を行なったものを用いた。
 ケース内の不必要な熱源を避けるため、螢光灯は安定器を分離し、ケース天井上に設置した。ケース内に滞留する熱を逃がすため、上部に通気口を設けた。
色彩
 展示物の環境色彩として、展示を効果的にする色彩計画を、各コーナーについて決定した。
 展示室床面のビニアスタイルの色彩は各階ごとにちがえ、1階は淡褐色、2階は濃青色、3階天文展示コーナーは濃赤色とした。壁体の色彩は、1階は展示内容から大きく2つに分け、自然条件を主としたコーナーを寒色系(濃青色)、家や集落を主としたコーナーは暖色系(黄褐色)とした。2階は道のコーナーを暖色系(黄緑色)、後半を寒色系(青色)、未来考を灰色、情報コーナーを白とした。
 ケース内の色彩は、各コーナーの壁体の色を考慮し、1階は白茶色、2階は淡緑色、淡青色のルノンクロスを基調とした。展示物によっては他の色彩や素材を用い、カーペット等の色も、それぞれのコーナーで決定した。
その他
○防災のため民家のカヤには防火処理を施した。
○水槽の濾過装置を昼夜作動させるため、別系統のコンセントとした。
○展示室の電気容量として、1階31,505VA、2階34,990VAを考えた。
○テーマ展示であることを示すため、各テーマごとにシンボルマークをデザインし、コーナータイトルを示すアンドンに表示した。

 

4.展示のテーマ

 展示テーマ
  「相模川流域の自然と文化」
 館のフィールドである相模川流域の自然条件とそこにくり広げられてきた人間の生活と文化を、「過去・現在・未来にわたる自然と人間生活との調和」という観点に立って課題的に展示する。

 相模平野と人間(1階 1〜12)
 相模平野に象徴される地域の自然条件と、家や集落を中心とした人間生活を展示し、地域の自然と文化を総合的に把握するためのコーナー。

 博物館とあした(1階 13〜14)
 博物館は過去の遺産に注目するだけでなく、未来の世代に今日の記録や資料を残し伝えていく役目を持っている。身近な物や写真をそうした眼で見直してみるコーナー。

 道――その文化をもたらしたもの――(2階 15〜23)
 相模川流域には各時代にさまざまな文化が伝わり、それが地域の自然条件・社会条件によって変化しながら、地域の文化が形成されてきた。いろいろな素材を通じ、文化の伝播や、他地域との関連を考えるコーナー。

 海と生活

 貝塚は語る

 相模の民具

 川のさかなと漁

 ビデオ休憇コーナー

 未来考コーナー

 情報コーナー
 2階後半(24〜30)は、相模川流域の自然と文化について様々な個別テーマから掘り下げ、自然と人間のかかわりについて考える場とした。また、映像や情報パネルにより展示を補なうコーナー、現代的課題を展示するコーナーも設けた。

 

 

 

 天文展示室
  太陽と私たち
 プラネタリウムの導入として、模型や写真によって天文や宇宙科学への関心を呼びおこすため、待合室をかねた、天文展示室を設けた。
 テーマには、人間生活の源である太陽を取り上げた。@天の川 A宇宙と太陽系 B太陽と私たち C天文情報コーナー

 プラネタリウム
 科学教育の一環として、天体の運行や、さまざまな天体現象を実験的に再現し、投影するプラネタリウムを設けた。天文展示とあわせ、宇宙や星への科学する心を育てるための施設である。

5.各コーナーの目的・内容・展示法
0.館内案内
館の各階の平面図を展示し、各部屋の位置・動線・非常口を示した。
館の行事の案内のため、各部屋ごとの掲示板を設けた。
(担当:浜口)
1.平塚市と古相模湾
現在の平塚市が、かつては海におおわれていたことを示すため、縄文海進期の海の部分を、鳥瞰航空写真にだぶらせコルトンオパール(2400×1800)の手法で展示した。
展示室への導入としての訴求力を考えた。
(村山)
2.母なる相模川
館のフィールドを示すため、相模川の全水系を含む地図(25,000分の1・4300×3300・等高線塗り分け)を展示し、人間生活とのつながりを示すため、水系・水源・水利用などを押ボタンで電気表示し、流域景観のコルトン8枚を展示した。
(島崎→浜口→大木)
3.相模平野のできるまで
相模平野・大磯丘陵の第4紀の地史的変遷を5枚の古地理図コルトンで示し、当時の環境を考えさせる資料として、化石層・埋もれ木・段丘地模型を展示した。資料の解説は8枚の引き出しパネルによった。見上敬三監修
(村山→浜口→森)
4.砂丘と町
平塚市の中心部が砂丘列上に発達していることを示す地模型(砂丘を螢光塗料で塗装、5000分の1 φ2300)を展示し、昭和初期の土地利用をぬりわけ、微地形の利用を示した。また、現在の市街地を押ボタンによるスポットで示した。
(小島→浜口→森)
5.石はどこから ―川原の石―
相模川原の石がどこから、どのように運ばれてきたかを示すため、再現した川原の石を手にとり、押ボタンを押すと、その由来を示す地質図コルトンと、その源岩を展示したパネルの表示が同調して示されるようにした。
(小島→浜口→森)
6.地下をのぞこう
相模平野の沖積層が、どのように形成されてきたかを示すため、地下にもぐる感じの展示空間に、一部実物資料をはめこんだ大磯から辻堂にいたる地下の東西断面模型(5000×2500)を展示し、ナレーションで解説した。見上監修
(村山→浜口→森)
7.川と生物
「川をつくる森」では、源流の森林の復元とポラビジョンにより、森林が川の源であることを示し、「川原の生物」では川原の景観写真をバックにイタチ、コサギなど動植物の標本とレプリカ44点をアクリル板にとりつけ、板上にその食物連鎖を示した。
(浜口)
8.石はどこから ―発掘された石―
市内岡崎の上の入遺跡から発掘された縄文時代後期の配石遺構を復元展示した。遺構を石の原産地から考える視点をとりあげ、根府川石の原石と地図で、当時の人が石をどこから運んできたかを考えさせる展示とした。
(小島→明石)
9.五領ケ台のくらし
縄文時代中期の人々の生活と自然環境を、市内の五領ケ台貝塚をモデルにジオラマに復元展示した(50u)。石器を作る男を主人公とした屋外風景と、煮たきする女のいる住居内の生活を展示した。効果音使用。樋口清之監修
(村山・小島・明石・浜口)
10.塚越古墳とむら
市内北金目にある塚越古墳を中心に、7世紀頃の村や水田の様子をパノラマ模型に復元展示し(5u)、古墳が作られた頃の生活を示した。
(村山→明石)
11.相模の村
江戸末期の流域の各村の戸数分布図を地図(2400×3000)に展示し、また、ケースでは平塚の村に残る古文書を中心に村の生活をテーマ的に展示した。開館時は”検地”、2回目は”年貢”をテーマとし、展示替えが可能なようケースを考慮した。
(島崎→土井)
12.相模の家
市内広川の近世民家のデイドコとザシキを復元展示し、屋根・壁などの構造が見られるようにした(76u)。民家内にウス・トウミなど45点の民具をおき、年中行事の展示も行う。また、自然と民家とのかかわりを4枚のパネルで示した。
(小島)
13.博物館とあした
駅前・田村・金目の3ケ所の定点写真を将来にわたって継続的に撮影、展示する場とし身近なものの記録を通じ、地域住民とともに歩むことのアピールの場とした。
(大木)
14.寄贈品コーナー
開館時は「平塚の文化財」として市内の重要文化財6点を展示した。毎月テーマを決めて寄贈資料を紹介するコーナーとし、展示替を配慮したケースにした。
(大木・小川)
15.大山の道
テーマ「道」の導入として、道標でもある不動明王石像のレプリカを展示し、大山の風景写真コルトン(2700×1750)で大山と大山道を示した。
(山本→小川)
16.石器の道
先土器時代から縄文時代にかけての交易や文化圏を考えるため、主に黒曜石の石器を素材に、その原産地推定の方法をパネルで示し、各地の原石とともに展示した。石器と原石の一部は露出展示した。
(村山)
17.稲の道
市内岡崎の上の入遺跡から出土したモミの圧痕のある土器を復元展示し、同時に出土した炭化材や土器・住居模型から平塚への稲の伝播時期とその頃の生活を推定して示した。モミの圧痕のある土器片は虫めがねで観察するようにした。
(村山→明石)
18.鏡の道
市内真土大塚山古墳から出土した三角縁神獣鏡を素材に、鏡のレプリカや同笵鏡の分布図から、当時の中央政権と平塚との関係を示した。
(村山)
19.焼物の道
市内出土の古代緑釉灰釉陶器と、近代の日常雑器をそれぞれアクリル板の同一平面上に展示し、その原産地を示す地図と対比させ、それぞれの時代の交易を示した。
(小島)
20.相模川の道
明治年間まであった高瀬舟の復元模型を水槽に浮かべ、押ボタンで動くようにし、河川交通の重要性を示した。動く模型は遊びの要素を考慮したもの。
(小島→小川)
21.平塚宿
江戸時代の平塚宿を200分の1のミニチュア模型(6500×1800)に復元し、村の形態や街道の様子を示した。押ボタンによる電気表示で主な建物を示した。
(小島→土井)
22.街道
街道を描いた錦絵のコラージュ、助郷の地図のパネルと共に道中記・手形などの街道関係資料を展示し、江戸時代の街道について示した。
(小島→土井)
23.雑草の道
身近に見られる8種類の雑草を、標本・写真を組み合わせた手動の回転パネルで展示し、日本への渡来ルートを示す地図と共に、人間の交通や運搬が生物界にも影響していることを示した。
(浜口)
24.海と生活
相模湾の自然と人間生活のかかわりを、実物の地曳船によって象徴させ、周辺ケースに、開館時は舟を描いた掛軸と船大工道具を展示した。
(小島・小川)
25.貝塚は語る
市内五領ケ台貝塚の断面模型(3000×1500)と、出土した貝や骨を現生標本と対比して展示し、それらの自然遺物からの自然環境の推定パネルで示した。
(浜口)
26.相模の民具
さまざまな民具を通じ、民具の合理性を自然との関わりあいから示した。「相模川流域のクワ」では、考古資料と対比させ民具の発生を示し、流域での形の違いから自然条件と民具の関わりを示した。「竹の民具」では、素材としての竹とそれをいかす技術、「桶づくり」では、桶職人の道具と技術を展示した。
(小島・小川)
27.川のさかなと漁
相模川にすむ10種の魚の剥製と、生きた魚の水槽展示、川の漁撈用具7点の展示により川と人間生活の関わりを示した。民具は露出展示し、川漁のパネルも展示した。押しボタンで作動するビデオテレビを置き、「良助さん」を上映した。
(浜口・小川)
28.ビデオ休憇コーナー
館で撮影・編集したいろいろなテーマを掘り下げたビデオを上映するコーナーとした。カーペットを敷き、椅子を設けてくつろいだ休憇ができるコーナーとした。
(小島・小川)
29.未来考コーナー
博物館が現代的な問題にもとりくむ姿勢を示し、問題提起をする場とした。定期的に展示替えを予定し、第1回は「人口爆発」をテーマに、地球人口に比例して金魚を飼育する水槽、押ボタンによる回転式イラストパネルなどを展示した。
(島崎→浜口)
30.情報コーナー
相模川流域の自然と文化について、学芸員の調査研究成果を提供するため、1テーマ1枚のパネル(B3版アルミ枠アクリルカバー)を開館時に約50枚用意した。
(全員)
31.太陽と私たち
人間生活の源をなす太陽エネルギーの発生や伝わり方を、押ボタンで作動するポラビジョンなど3台の模型で示した。天文写真コルトン16枚を展示し、天文情報コーナーとして掲示板も設けた。踊り場に導入の銀河写真(4500×1600)。
(浜口→小林)

展示設計・製作にあたって
(株)丹青社 佐々木朝登
 果して博物館をつくる必要があるのだろうか?本気でつくるつもりなのか?開館より5年前、私共が展示の基本計画作成を平塚市から下命された頃、正直にそのように感じたのを思い出す。すでに横須賀市博物館の活動情況を見てきた私は、地域研究のしかたやその蓄積、整理をはじめ、市民との接触、研究間の連係等について、これを平塚市にあてはめてみると、それは寒々としたものであった。普通、博物館をつくるには、それなりの土壌というものを感じるのだが、それがまるで感じられなかった。
 既存の研究報告も極端に少なく、例えば古墳の発掘調査にしても、対象の古墳の実測図さえなく調査の後復元するどころか、現場には積石が散乱して、「これでは遺跡破壊以外の何ものでもないではないか」と公憤のようなものが身内に充満した。
 博物館は「もの」が主役といわれながら、「もの」が集まっていない。先ず調査し、「もの」を確認し収集するのが必要だが、調査費は十分でない。とにかく「無」であった。あるのは図書館・青少年会館についで博物館を建てるという構想のみだった。
 このような状況下で1つだけあったのは「人」であった。それはまったくの小人数であったが横紙破りともいえる熱情を持った人たちであった。「平塚には、独自の考え方による博物館を絶対に創るのだ。」という情熱あるのみであった。基本構想を受け、基本展示計画を作成した47年の段階においては、展示ストーリーの概要があるだけで、その実現を保障するいっさいの裏付はなかった。
 このような中で、島崎室長が私共の精神的支柱であった。理想的な博物館づくりに向かわれたK学芸員は、建築にまた展示に、火を噴くような言葉で強い要求をしてこられた。島崎室長は退院後すっかりやつれられた体を、私共の事務室に運んでこられ、「俺の顔に免じて完成させてくれ」と懇請された。恐縮この上もなかった。そのうち、学芸員の陣容も充実され、平均年令の若い学芸員集団は、精力的に発掘や資料収集に身体ごとぶつかっていかれるにおよんで、当初の不安は徐々に解消され、前途に光明が見えてきた。
 その頃、島崎室長は永遠に不帰の人となられた。私共は大きな支柱を失った。誰いうとなく、「弔い合戦」という言葉が私共の心を支配してきた。実施設計は数次にわたって訂正、改良していき、結果的には交響楽のように抑揚を持ったプランニングになりえた。このことは、学芸員諸氏が、若い力と情熱を注ぎこまれたからに外ならない。
 展示の出来不出来の評価は自らはするものではない。むしろ利用者のものであるが、私共の実感としては、近年でも最も上位のものと考えている。開館後も、他館で舌をまくほどの数で特別展を開催しておられ、しかもほとんどが学芸員の手作りである。若さと情熱がこれをなしとげられると他館の評判しきりである。
 市民のための博物館。これこそ私は本当の博物館の姿であると思う。県立博物館と異なって市域にあり、市民の声・反響・批判は直接博物館にくる。つまり、逃げの手は打てないわけである。そこに博物館の面目があるといえよう。
 この博物館を創ったサムライ達の充分な活動を可能にするよう、市当局にお願いするとともに、これからますます館が充実し発展することを、切に祈願したい。また、私共はこのプロジェクト参加の機会を与えていただき、このような貴重な体験をしえたことに、大きな喜びと感謝の念を持っていることをお伝えし、筆をおきたい。

 

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